信楽焼窯元の大谷陶器    窯焚きトーハン六十年の思い出

 「窯焚きの籐(トー)はん」
で知られる北川籐左衛門さん明治三十五年生まれ
登り窯全盛時代を背負ってきた日雇い技術者と言えよう。
「トーハン」はいつも頭に鉢巻をして、真面目に仕事をする。しかも根っからの綺麗好きで、ゴミカキを手にしている姿が印象深い人だったそうです。窯の周囲を時あればゴミカキで掃いていたそうでした。
 十三歳のときから昭和五十年九月まで、実に六十年間、数え切れない多くの親方にお世話になって「使われの身」で通してきた人である。「俺には、人を使うていく才能がないし、窯を自分で焼け、と言う話ももらったが俺は気づつない目までして金は要らんとよく言うた。トーはんは欲がないなァ」と言われたものだという。
 何処までも日雇い、窯元からお声がかりで、籐はんは気軽に出向いていく、何処の窯元も来てほしい人であった。
 特に、終戦後からの火鉢ブームの時の籐はんの窯焚きは、窯元から引っ張りだこで、かち合った仕事も幾多で四昼夜掛け持ち(二つの窯を連続して焚くため四昼夜寝ずに窯焚きをすること)をしたこともあった。
籐はんの窯焚き
籐はんの窯焚き(昭和30年代)
ところが籐はんは眠いどころか、鼻歌交じりに交代にやってくる。平気なのである。「エライと思わん。気が勝ったるので、エエ窯焼こうと思うて一生懸命になってんねや」
 籐はんには、焼けにくい窯をどうしてでも上手に焼き上げるという、窯焚きへの挑戦、窯への挑戦が、何よりものやりがい、生きがいを感じさせたのであろう。そこに窯焚き人としての職人根性を読み取ることができる。どうすればうまく焚けるか。窯の構造、陽気、割木の乾燥具わい、焚き方・・・等。そのとき、そのときに工夫をしてゆかないとダメである。感を働かせないことにはエエ窯が焼けん。初めから終わりまで習いやった、と籐はんに教えられた窯の職人は数多い。
 籐はんは二十歳ごろには造りもした。釉薬合わし、原型、釉薬がけ、窯詰、窯焚き等、やきもの造りの全ての仕事を経験した籐はんは今、「割り木を持とう思うても、手がしびれてしもうてあかん。体がもたんわ」と語りながら、過ぎし日の窯の炎に思い出を振り返るのである。
                                                                                          (故人の晩年の話)
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